曹洞宗で有名な2大本山の歴史や見どころと納骨する方法
曹洞宗は、日本で最も古い仏教宗派のひとつであり、福井県の永平寺や神奈川県の總持寺が有名な2大本山として知られています。
この記事では、それぞれの本山の歴史や見どころを紹介し、曹洞宗の大本山に納骨する方法についても解説します。 どうぞ、曹洞宗の魅力を学びながら、納骨に踏み込んでみてください。
曹洞宗とは
曹洞宗は、中国の禅宗五家の一つで、達磨から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能の弟子である青原行思によって創宗されました。
日本においては、鎌倉時代に宋から伝えられ、禅宗の一つとして始まりました。また、臨済宗・黄檗宗とともに日本三大禅宗の一つであり、全国に多数の寺院と信者を持つ日本有数の仏教宗派です。
特に、福井県の永平寺や神奈川県の總持寺が有名な2大本山として知られています。曹洞宗は、禅宗の本来の魅力を保持しながら、日本の特色を取り入れ、独自の文化を発展させてきました。
曹洞宗の教え
曹洞宗は、修行と悟りを一体のものだという「修証一如」の教えに基づいています。
道元禅師は、起床・食事・掃除・洗面・入浴など、日常生活のすべての行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説いています。
座禅は、曹洞宗では仏の姿に近づける手段として重視されており、修行の中でも特に重要な意味を持っています。
曹洞宗では、人間は本来仏の心を与えられており、正しい生活をすることによって仏の心が現れてくると考えられます。
自分勝手な考え方を改め、他人やモノのいのちを大切にすることで「仏心」に近づくことができる、というのが信仰です。
そのため、他人への思いやりや報恩感謝の心を大切にして精進することが、この宗派では1つの修行と考えられています。
瑩山禅師は道元禅師と一緒に布教を行った祖として、日々礼拝し敬うことも、曹洞宗のテーマとなっています。
曹洞宗の歴史
曹洞宗は、鎌倉時代初期に道元により日本に伝えられ、臨済宗などとともに鎌倉仏教の一つに数えられています。
道元は、宋に渡り天童山で曹洞宗の天童如浄により印可を受け、1228年に帰国し、京都に興聖寺を開きました。
しかし、比叡山からの弾圧を受け、1244年に越前国(福井県)に下向し、大本山・永平寺を建立しました。
その後、第四祖瑩山は多くの優れた弟子を養成し、大衆教化にも努力し、曹洞宗の素地をつくりました。
現在の信者の数は全国で800万人にも上り、日本三大禅宗の一つとして大きく発展しています。
曹洞宗は禅宗の一つ
曹洞宗は、中国の禅宗五家の一つであり、唐の時代の禅僧・洞山良价を開祖とします。
日本においても、鎌倉時代初期に道元により伝えられ、臨済宗などとともに鎌倉仏教の一つに数えられています。
道元は、宋に渡り天童山で曹洞宗の天童如浄により印可を受け、その後修業した臨済宗の建仁寺で修行しました。
曹洞宗は、お釈迦様を本尊にしている仏教を代表する宗派で、臨済宗と同様に禅宗の1つであり、葬儀の際にも独特の作法があるのが特徴です。
二つの大本山がある理由
曹洞宗は、道元と瑩山紹瑾の2人を宗祖としています。それぞれの宗祖が建立したお寺を大本山としているため、「吉祥山永平寺」と「諸嶽山總持寺」があります。
「吉祥山永平寺」は道元が建立し、「諸嶽山總持寺」は瑩山紹瑾が建立したお寺です。
「吉祥山永平寺」は曹洞宗の根本の教えが説かれたお寺で、「諸嶽山總持寺」は曹洞宗の発展の拠点となったお寺ということです。
このように、2つの大本山があることで、曹洞宗の教えを学ぶ上でも、修行をする上でも幅広い選択肢を持つことができるようになります。
福井県の永平寺の歴史と見どころ
永平寺の歴史
永平寺の歴史は、1244年に道元が越前に大仏寺を建立し、それが始まりです。道元は従来の仏教に疑問を抱き、中国へ行き、そこで新しい教えを学び、戻ってきた後に永平寺を建立しました。
名前の意味は「永久の和平」で、道元の教えが伝わる場所として重要な役割を担いました。
道元が亡くなった後も、永平寺は衰えましたが、5世義雲が復興に尽力しました。現在の曹洞宗では、永平寺と総持寺の2か所が本山となっています。
1749年には三門が再建され、修行の際の入門口にあり、四天王像が安置されています。
永平寺の見どころ
永平寺は曹洞宗の発祥の地であり、修行僧たちにとって重要な意味を持つ寺院です。見どころの一つに、傘松閣があります。
ここは、参拝者の方々の控室や研修・宿泊の部屋がある1階と、156畳敷きの大広間がある2階に分かれています。
2階の天井には、昭和初期の有名な画家144人による230枚の日本画が埋め込まれています。
また、永平寺では365日の生活すべてが修行だと言われているため、僧堂は私語が厳禁で、雲水は一畳ほどのスペースのなかで坐禅や食事・就寝など、日々の修行に励んでいます。
また、永平寺には、道元禅師の御真廟、承陽殿があります。ここは、日本曹洞宗の発祥の根源であり、聖地ともいえるとても大切な場所で、永平寺歴代住職の位牌も祀られています。道元の遺骨も承陽殿の中央に安置されています。
さらに、永平寺の敷地内に入り、階段をのぼった所にある山門も見どころの一つです。
ここは、修行僧たちにとって非常に大きな意味を持つ門で、入山の許しを乞う時間をかけ、確固たる意志と覚悟をもってこの山門をくぐっていることがわかります。
永平寺を拝観する際には、この山門で僧たちがどれだけ修行に励んでいるかを感じることができるでしょう。
神奈川県の總持寺の歴史と見どころ
總持寺の歴史
總持寺は、1321年に能登の国に開かれました。その後、曹洞宗の宗祖である瑩山紹瑾が坐禅の最中にお告げを聞いたことから、總持寺の歴史は始まりました。
瑩山紹瑾は、住職から諸嶽寺を譲り受け、「諸嶽山總持寺」としました。その後、1615年の徳川幕府の法令により、總持寺は永平寺と並んで大本山となりました。
しかし、1898年に火災で焼失した際、總持寺は関東への移転が決まりました。候補地がいくつかあった中、鶴見の地が選ばれ、1911年に移転遷祖式が行われました。
總持寺は、歴史の深い寺院であり、現在も多くの信者に愛されています。
總持寺の見どころ
總持寺は、曹洞宗本山として日本最大級の規模を誇ります。その中でも特に見どころとなるのが三門、香積台、大祖堂の三つです。
三門は鉄筋コンクリート造りで、日本最大級の大きさを誇ります。巨大な三門の左右には、元横綱である北の湖関の、15歳の時の姿をモデルにしたと伝えられている仁王像がおさめられています。
香積台は總持寺の総受付であり、大黒尊天がまつられています。大黒尊天は七福神の一人であり「人々の願いを叶え、福をさずける神」として、現在でも多くの人たちに厚く信仰されています。
大祖堂は日本一の大きさを誇る本堂で、1000畳もの広さがあり、朝夕のおつとめや、法要などが行われています。
宗祖の瑩山紹瑾と道元をはじめ、歴代の禅の僧侶がまつられています。
また、三門に近い百間廊下も見どころの一つで、長さ164mで東西の神殿をつなぎ合わせています。
廊下の雑巾がけが実践されており、三つの門はいわゆる通用門で、朝をあらわす東側の金鶏門、昼の中央の中省門、夜の西側の玉兔門と呼ばれています。
曹洞宗の大本山に納骨する方法
永平寺に分骨する方法
永平寺は、遺骨を納める「分骨」という方法で、受け付けています。分骨をする場合は、分骨する遺骨を小さい骨壺に入れて持参しましょう。
永平寺への納骨は、申し込みを行う「総受処カウンター」にて行います。
納骨を申し込んだその日に、納骨のための法要を行ってもらい、納骨するという流れです。この納骨のための法要は、毎日行われているので、予約などは必要ありません。
ただし、永平寺に納骨した遺骨は、他の人たちの遺骨と合わせて埋葬されるため、返却はできません。
總持寺の永代合葬墓する方法
總持寺の永代合葬墓は、横浜市にある総持寺で受け付けられる納骨の方法の一つで、遺骨を他の人たちと合わせて一つの墓に埋葬することができます。
このような墓は、納骨できる人の条件があり、お墓の承継者がいない人、すなわち子どもがいない夫婦や単身者であることが条件とされています。故人の命日など、いつでも永代合葬墓へお参りをすることができ、故人を永遠に心に留めて供養することができます。
曹洞宗の大本山の納骨についてよくある質問
曹洞宗の大本山の納骨について教えてください
曹洞宗の本山には、大本山總持寺と大本山永平寺がありますが、どちらの本山にも納骨ができます。
永平寺に分骨する方法を教えてください
永平寺は、遺骨を納める「分骨」という方法で、受け付けています。分骨をする場合は、分骨する遺骨を小さい骨壺に入れて持参しましょう。永平寺への納骨は、申し込みを行う「総受処カウンター」にて行います。
總持寺の永代合葬墓する方法を教えてください
總持寺の永代合葬墓は、お墓の承継者がいない人、すなわち子どもがいない夫婦や単身者であることが条件とされています。申し込みは、管理事業部でおこないます。